新人スタッフFです。歴史の中で人気のある新撰組、その局長を務めた近藤勇は今でも多くの人々に親しまれています。

近藤勇の正妻は、松井つねです。士族である松井常五郎の娘で一橋徳川家の祐筆(今でいう秘書)を務めた才女でした。

勇は多摩の百姓の宮川久次郎の三男であり、江戸牛込の試衛館師範近藤周助の養子となり、4代目師範として宗家を継ぎます。

父周助から妻を取るように勧められ、お見合いを繰り返しますが、多摩の農家の出身ということもありなかなか成婚に至りませんでした。そうなんです、勇もお見合いには苦労しました。

そんな時、徳川幕府御三卿のひとつ清水徳川家の家臣である松井八十五郎の長女、松井つねとお見合いをします。

つねは24歳であり「行き遅れ」と言われていました(当時は今より寿命が短かったためです)。

二人は結婚することになりました。

「つねは醜女であったから結婚した」と後に近藤勇は言っていたそうです。

醜女と言われたのは、一説によると顔に痘痕(ぶつぶつした小さなくぼみ)があったからではと言われていますが、現存する写真では判断できず、逆に背筋が伸びて凛とした女性に見えます。

実は、勇なりの照れ隠しだったのではないでしょうか。

勇は、結婚3年後、徳川家茂の上洛を警護する浪士組に志願し京都に行ってしまいます。

その後、新撰組を結成した近藤勇は局長となり京都の警備にあたるのです。

たまに江戸に帰りますが、すぐに京都に戻ってしまいます。

池田屋事件で脚光を浴びた勇は、京都でもさぞかしモテたのでしょう。

後世では、勇には5人の愛人がいたと伝えられています。

当然、江戸で待つつねにもその噂は耳に届ていたでしょう。

しかも、妾にも子供がいました。

妾のおよしとの間に男子が一人

妾で京都三本木の芸者であった駒野という女性との間に男子が一人(尊王攘夷派志士には目もくれず勇を愛した女性)

妾のお考との間に女子が一人(遊女の中でも最高級の位を持つ御幸太夫という人物。もとは美幸太夫の姉の深雪太夫を寵愛)
この深雪太夫、御幸太夫姉妹は二人とも最高級の位を持ち絶世の美女だったようです。

こんなざまですから、つねは、勇の兄音五郎に愚痴をつづった手紙を度々送っていました。

そんな勇ですが、賊軍となってから、江戸に一時的に帰る船の中で榎本対馬に以下のように言ったと伝えられています。

「京都へ行くときはもう二度と妻子には会わないと決意していたものを、今こうして帰ることになって会えるのかと思うと嬉しいような気持ちでまったく恥ずかしい」(子は娘でたまといった)

それに対して榎本は・・・

「いや近藤さん、それが人間の情と云うものです。こうした心を持たない人間はただの獣に過ぎません」と語り返したそうです。

また、この帰還の際、土産として勇は銀の指輪をつねへ渡したと伝わっています。

勇は官軍に流山で捕縛され、板橋で斬首、首は京都三条河原で晒されました。

女手一つで娘を育てるつねを見て多くの人が、維新後、再婚するように勧めたそうです。

しかし、つねは頑としてそれに応じず

「二夫には仕えない」との信念を生涯貫きました。

つねが髑髏マークの刺繍を施した稽古着が現存していますが、つねの勇に対する深い愛情を感じます。

病弱であった娘たまにも先立たれ、明治25年7月20日、56歳でつねは静かにこの世を去りました。

勇は、京都にていつ命を落としてもおかしくない任務を任されていました。

そのため、大切な妻子と二度と会えないであろう、そう考えないとやっていられないと思ったのかもしれません。

正妻つねは、勇から深い愛情を受けていたことは間違いないようです。

絆って凄いですね!!

※つねさんの写真は晩年の写真です。

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