京の五条の橋での、牛若丸と弁慶の出会いのお話しはあまりにも有名です。
「牛若丸」つまり「源義経」は、源義朝と当時絶世の美女と言われた常盤御前(義朝の側室)の間に生まれました。
当時の帝である近衛天皇の中宮、九条院(藤原呈子)は美しい女性が大好きで「雑用女」という自分のお世話係を探すために、美女達を集めて審査したのです。
その中でナンバーワンの美女に選ばれたのが常盤御前でした。
これが事実上、日本で初めてのミスコンと言われています。
その後、平治の乱で夫である源義朝を亡くしてしまった常盤御前は、自分はさておき、せめて息子たちだけは助けてもらおうと、敵の棟梁である平清盛の元へ向かいました。
清盛からすれば、怨敵である源氏の棟梁、源義朝の妻なので、会った瞬間、常盤御前は殺されてもおかしくない状況でした。
しかし、清盛は常盤御前を見た途端、その美しさに一目ぼれしてしまいました。
息子ともども常盤御前の命を助け、ついには自分の側室にまでしてしまったのです。
ミスコンに優勝し、戦乱のさながら敵の棟梁に助けられるとは、相当の美女であったことが伺えます。
また、助けてくれた平清盛も、とても慈悲深い人だったのでしょう。
けれども、この時に命を助けた「牛若」(のちの源義経)が後に成長し、異母兄である頼朝と富士川の戦いで再会してからは、天才的軍事能力を発揮し、その後、平家追討の先鋒として一の谷、屋島、壇之浦の戦いに突き進み平家を滅ぼすことになったのです。
後世の名高い戦国武将たちはこの教訓を生かし同様の場面では非情に徹したと言われています。
絶世の美女であった常盤御前の美しさ、その子供たちにかける情け・・・・、平清盛の心中はいかほどであったが察することはできません。
しかし、戦国の世では、その優しさが「甘さ」となり、自らの一族を滅ぼす結果となったのは実に皮肉なことではあります。
古今東西の歴史の中で、ただ美人なだけで時の権力者を魅了し食いつぶしていく毒婦は度々登場しますが、常盤御前は、当時日本を二分する勢力である源氏・平家の棟梁、源義朝と平清盛という超一流の人物を引き付け魅了するほどの気品と教養に満ち溢れた女性だったのでしょう。
平清盛は常盤御前を大切に扱いました。
常盤御前は清盛の恩義に大いに感謝しながら、亡き夫源義朝を想い最後まで源氏の世が来ることを、幻のように見つめ生きる道を選んだのです。
そして、3人の息子たち(今若・乙若・牛若)を救ったことが、源氏再興に繋がったのです。
いつの世も、内面・外面ともに自分磨きを怠らず、滲み出る「美しさ」を持つ女性は、超一流の男性を引き付けて魅了してしまうようです。
実は、公式的なミスコンは明治時代に始まりました。
現在では大学や地域で、そして世界規模で色々なコンテストが開催されてますが、日本で初のミスコンは、明治24年。
芸妓さん100人の写真を掲載して投票するものでした。
浅草の名所であった「浅草凌雲閣」が主催。
観光を目的として「東京百美人」という名前でミスコンが行われました。
栄えある1位に輝いたのは、新橋の芸妓であった玉川屋玉菊という当時17歳の女性でした。
一般の女性が対象となった日本初めてのミスコンは、明治41年(1908年)の時事新報社主催の『全国美人写真審査』でした。
文字通り、写真選考によって審査されました。
見事1位に輝いたのは、末広ヒロ子さんという女性でした。お茶やお花、琴やピアノまでたしなむお嬢様で、その美貌から、「小倉小町(父は小倉市長)」と呼ばれるほどでした。
実は、ヒロ子さんの義理の兄が自分で撮影した写真をヒロ子さんには言わず、勝手にコンテストに応募。
約7000人の応募があった中から、見事、彼女が1位になったのです。
しかし、思いもがけない悲劇に見舞われます。ヒロ子さんは、ミスコンが理由で中学を退学になってしまったのです。
「容姿を世間にさらし、学校の体面を汚した」ことが理由だったそうです。
そのような理由で退学??
と驚いてしまいますが、ヒロ子さんが知らないうちに勝手に応募してしまった義理の兄が一番びっくりし焦ったのではないでしょうか。
あちゃ~やってしも~たぁ(涙)
義理の妹のかわいかけん、応募してしもうたばい・・・・。
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